
1960年9月10日 ― アベベが裸足で五輪マラソンを制す
靴より先に、顔を見た
1960年9月10日、ローマ五輪の男子マラソンで、エチオピアのアベベ・ビキラが裸足で走り金メダルを獲得した。沿道の少年が見た、遠い国から来た一人の走者の物語。
ここからは、架空の人物による歴史短編です。
靴ひもが切れたのは、店を出てすぐだった。サンドロは片方だけ短くなったひもを指で結び、ほどけないか確かめた。父に頼まれた配達は終わった。家へ戻れば皿洗いが待っている。けれど今夜のローマには、いつもの帰り道を少しだけ遠回りさせる何かがあった。
道の向こうに人が集まっている。マラソンの選手が来るのだと、背の高い男が教えてくれた。サンドロは礼を言い、人の肩と肩の隙間を探した。大人たちの背中しか見えない。仕方なく縁石の近くに腰を落とすと、今度は道がよく見えた。靴先を車道へ出さないように、両膝を抱えた。
競走にはあまり詳しくない。学校で走らされると、いつも初めに飛ばしすぎてしまう。最後は喉が痛くなり、足元ばかりを見る。だから遠くから近づいてくる選手の姿を見たとき、何より不思議だったのは、その顔が前を向いていることだった。こんなに長く走ってきて、まだ先を見ている。
街の明かりが脚を照らした。サンドロは目を細め、それから思わず自分の靴を引っ込めた。選手は裸足だった。見間違いかと、次の一歩を待つ。その次も待った。だが待つほどの間もなく、その人は目の前を通り過ぎていった。軽い足音が、周りの声の下に一瞬だけ聞こえた気がした。
「どこの人?」と尋ねると、誰かがエチオピアだと答えた。サンドロは頭の中で学校の地図を広げたが、正しい場所に指を置く自信はなかった。父なら何か知っているだろうか。隣の男は選手の名前を叫んだ。うまく聞き取れず、サンドロはただ両手をたたいた。手のひらが熱くなるまで、もう小さくなった背中に向かって。
父の店では、靴の傷みを見れば暮らしが分かるとよく言う。磨かれた革、すり減ったかかと、何度も縫い直したつま先。サンドロも客の顔より先に足を見る癖がついていた。けれど今見送った足を、どこへ入れればよいのか分からなかった。分からないままで、胸が弾んでいた。
やがて、あの選手が勝ったらしいという声が人から人へ渡ってきた。サンドロはその輪を抜け、店へ急いだ。走ると片方の靴が少し緩い。いったん立ち止まって、ひもを結び直す。真似をして脱ぐ気にはならなかった。自分の足には自分の靴がいる。それでも今夜は、いつもの道がひどく狭いとは感じなかった。
父は戸口で腕を組んでいた。遅い、と言われる前に、サンドロは息を吸った。「今日、すごい人を見たんだ」。どんな靴だった、と父が聞きかける。サンドロは首を振って笑った。今度は足元だけでなく、前を向いていた顔の話から始めようと思った。
史実として確認できる部分
- ローマ五輪の男子マラソンは1960年9月10日に行われ、アベベ・ビキラが優勝した。[1・2]
- アベベはこのレースを裸足で走った。[1・2]