
1940年9月12日 ― ラスコー洞窟の壁画が発見される
まだ見ていない動物
1940年9月12日、フランスのモンティニャック近くで四人の少年がラスコー洞窟の壁画を発見した。洞窟には入らなかった少女が、戻ってきた少年たちの話を聞く。
ここからは、架空の人物による歴史短編です。
帰ってきた少年たちの靴を見て、オデットはまず母に叱られるだろうと思った。土が縫い目に入り、膝にもついている。モンティニャックの家の前で豆を選り分けていた彼女は、籠を抱えたまま立ち上がった。誰かが転んだのか。けれど彼らは痛そうな顔をせず、いっぺんに話そうとしていた。
地面の下に、絵があるという。オデットは少し待った。何の絵かと尋ねる前に、牛だ、馬だと声が重なった。落書きではないのか、と言いかけたが、ひとりの手が空中で大きく動くのを見て口を閉じた。紙を指すような動きではなかった。自分の体よりも大きな壁を、その手はなぞっていた。
彼女は穴の中へ入っていない。暗さも、匂いも、壁の色も知らない。少年たちの言葉から想像しようとすると、家で飼っていた馬が先に浮かんでしまう。それはきっと違うのだろう。見てきた人と、聞いているだけの人の間には、言葉を重ねても埋まらない幅があった。
「誰が描いたの」。その質問には、今度はすぐ答えが返らなかった。オデットは豆の籠を地面へ置いた。自分なら絵を描くとき、窓の近くへ紙を運ぶ。暗い所では線が見えない。どうしてわざわざ地面の下なのだろう。見つけてもらえない所へ描く気持ちは、まだ分からなかった。
家の奥で祖母が呼んだ。夕食の支度が遅れる。少年たちはまた誰かに話しに行くのか、道の先へ歩きだした。オデットはその背中と、籠の中の豆を交互に見た。ついさっきまで、今日の仕事は豆を選び終えることだけだった。今は土の下にあるという動物の輪郭が、手を動かす間にも頭へ戻ってきた。
祖母に話すと、見てきたのかと聞かれた。見てはいない、と答える。「じゃあ、見たところまで話すんだね」。少し腹が立った。うそをついたつもりはない。けれど考え直して、少年たちの靴が土だらけだったこと、みんな早口だったこと、大きな動物を手で描いてみせたことから、もう一度話した。祖母は今度、黙って聞いていた。
豆を煮る匂いが家に広がった。窓から入る光が弱くなり、オデットは籠の底を手で探った。よい豆と、傷んだ豆を分ける。さっきまで知っていると思っていた町の地面が、急に深くなった気がした。歩いても見えないものが、足の下にある。名前の分からない誰かが、ずっと前に動かした手の跡がある。
夜、彼女は自分の手を開いてみた。爪の縁には豆の薄い皮が残っていた。絵を描いた人の手にも、何かついていたのだろうか。答えは出ない。明日、もっと分かった人に聞いてみようと思った。知らないままで眠ることが、今夜だけは少し楽しみだった。
史実として確認できる部分
- 1940年9月12日、マルセル・ラヴィダら四人の少年がラスコー洞窟に入り、壁画を発見した。[1・2]
- ラスコーには先史時代に描かれた馬やウシ科の動物などの像が残る。発見と制作は別の時代の出来事である。[1・2]