2026

10OCT05

月曜日

HISTORY STORY食と社会
1789年、籠を持ち雨の道を歩く女性たちを想像した挿絵

1789年10月5日 ― 女性たちがヴェルサイユへ行進する

空の籠を持つ人

1789年10月5日、パン不足への抗議を背景に、パリの女性たちを中心とする群衆がヴェルサイユへ向かいました。短編は、行列の中で互いに名を知る二人を描きます。

ここからは、架空の人物による歴史短編です。

籠が軽いと、歩くのは楽なはずだった。ジャンヌは持ち手を右から左へ移した。雨に濡れた袖が腕に張りつく。中には何もない。朝から何度も確かめているのに、底をのぞくのをやめられなかった。家を出るとき、子供にはパンを買ってくると言った。

パリの市場で待っていても、欲しいものは手に入らなかった。人が集まり、声が重なり、どこへ行くのかと聞いたときには、すでに周りが歩き始めていた。ヴェルサイユへ。王のいる場所へ。ジャンヌは遠いと知っていたが、どれほど遠いかは、自分の足で確かめたことがなかった。

隣を歩く女は、途中で靴ずれを起こした。止まれば置いていかれる、と言いながら、歩く速さが落ちていく。ジャンヌは籠を道の端へ置き、腕を貸した。女は名前を聞いてきた。ジャンヌが名乗ると、自分はアデルだと言った。それだけで、それまでただの人波だったものの一部が、放っていけない相手になった。

前の方で叫び声が上がった。何を言っているかは届かない。列にいる全員が同じことを考えているように、あとで誰かが話すのかもしれない。けれどジャンヌの頭には、子供を預けた家の戸口と、火を落としてきた炉と、明日の食べ物のことが、順番もなく浮かんでいた。立派な言葉を覚える場所は残っていなかった。

雨が顔を伝った。アデルは、王に会えたら何を言う、と聞いた。ジャンヌは考えた。怒りならいくらでもある。それを一度に声にすると、肝心なところまで届かない気がした。「空の籠を見てもらう」。言ってから、子供じみていると思った。アデルは笑わなかった。自分の手も何も持っていないと、指を開いて見せた。

足元のぬかるみを避けようとして、ジャンヌは誰かの肩にぶつかった。謝る声は、前へ進めという声に消えた。怖くないわけではなかった。人が多ければ安心できるとも限らない。後ろへ戻ることも難しくなっていた。だからこそ、隣の一人に腕を貸している感触を、失いたくなかった。

ヴェルサイユに近づいたと誰かが言った。ジャンヌには建物の数が増えたことしかわからない。家に帰る道のりは、来た分だけ残っている。今夜どこにいられるのか、明日何が起きるのかもわからなかった。それでも、買えませんでしたと一人で戻る以外のことを、今日はしている。

アデルが腕を離した。少しなら歩けると言い、今度はジャンヌの籠を持とうとした。空だから平気、と言いかけて、渡した。二人はそのまま数歩進んだ。軽い籠を誰かに持ってもらっただけなのに、肩の痛みが少し緩んだ。ジャンヌは初めて、帰り道にもこの人と歩きたいと思った。

史実として確認できる部分

  • 1789年10月5日、女性を中心とし男性も加わった群衆がパリからヴェルサイユへ向かった。[1・2]
  • パンの不足や価格への不満が背景にあった。翌6日には王家がパリへ移る事態となった。[1・2]
  • 行進には暴力も伴った。短編は5日の行進中の一場面に限定し、全体を穏やかな行進として描くものではない。[1・2]

参考資料・出典